点と線と量の経路

 設計(完了)がまずあるわけではないけれど、作業は当面の目的のために実行され、その中途で暫定目的の実際を体感と知覚で確認する点において、次の作業が策定される。似た作業進行を経て再び確認する点を得るわけだが、この時は最初の点へ立ち戻る筋が加わった見通しを促される。作業過程が継続すれば点へ戻る線的なみつめと予知的な目的が量的なものへ変わっていくが、策定の手法のレヴェルは変わらない。実際に作業化しない仮定(予知)の筋も加わって、その虚構を幾度も往復する経路も量として嵩み、錯綜混乱の手前で、目の前に選別の果てのような現実に救われるという具合だ。

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反図画工作

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表現及び鑑賞の活動を通して,つくりだす喜びを味わうようにするとともに造形的な創造活動の基礎的な能力を育て,豊かな情操を養う。
日本の初等教育における教科の1つ。中学校・高等学校の美術・工芸(高校)・技術に相当する。略して図工(ずこう)ともいう。
 ー wiki「図画工作」

 三島由紀夫が割腹自殺を行い断頭スクープが新聞に掲載された年、図画工作の時間に、同級生が茶碗などをこしらえていた片隅で私は、さらし首の楊枝差しを焼いた。大きく上に向かって開けた口が楊枝を差す穴となっていて、手のひらに乗る程度の小さなものだったが、これが教師にタイムリーだからか受けたようで、職員室で欲しいと手を挙げた他の教諭のためにいくつか追加注文制作をおこなった。首と判断できる程度の凹凸の、造形的な工夫などひとつもない、ありあわせの釉薬が垂れて、幼い残酷がその無表情に露呈した気味の悪いものが、父親の机上に長い間置かれていたようだったが、何処に仕舞ったのだろう。

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線視痕

 思いつきを残すのは冷蔵庫に貼る買物リストと同様の簡易さと気楽さでメモを添えたスケッチとなる場合もあり、スケッチの描写には長年の描写癖のような近代的な素描感が滲んでなかなか簡単に拭えない。線の束にしろ点にしろアクセントのような調子のような言うならば絵画的なイメージ化をたっぷり引き連れてしまう。
 ふと、どうでもいいことのように思えるようになり、「夢想の実現」という関わりを一枚に許してもいいだろうと鉛筆を走らせると霞んでいたことが明瞭になる。人間が二本足で歩くことを嫌悪していたような、逆さまな不自然に囚われていたのだろう。リアルな実現の為という口実は、実現という理念化そのものへの検証にもなり、実際に実現しなくても構わない現時点での思想を顕すことになる。とここまで短絡して、それにしても苟且の形式が必要になり、それは理念へ投げて戻す仕方となる。

 というのも、現実実現の検証において、演繹を拒否した事前検証の不足が矢張り多々あって、後戻りできない上、他にも様々な理由が生じてきたからでもある。

脈絡距離

 扱いの形をみえるように置くことを、試論として重なるものとすれば、結論めいた洗練を構築することに反するから、絶えず茶番地味ている。これがこの行為性の脆弱だが、ここを離れて象徴的な抽象性で行為も欲望も昇華される筈と演繹されるイメージにただ乗りするのは、生理的にも倫理的にも違和感が拭えない。

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枝舟幻視

 おそらく最も古い人間の移動の道具は舟だ。と後付けで独り言ちた。そもそも受け取った美術作品の舟形を日々目にしていたことが幻視へ誘ったにちがいない。ボート、カヌー、カヤックと並べ調べそれらの美麗な形態にうっとりしてから、手作りの過程を重ねて眺め、シーカヤックで波をかき分けて大海に躍り出た人を目を細めて想った。

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