点と線と量の経路

 設計(完了)がまずあるわけではないけれど、作業は当面の目的のために実行され、その中途で暫定目的の実際を体感と知覚で確認する点において、次の作業が策定される。似た作業進行を経て再び確認する点を得るわけだが、この時は最初の点へ立ち戻る筋が加わった見通しを促される。作業過程が継続すれば点へ戻る線的なみつめと予知的な目的が量的なものへ変わっていくが、策定の手法のレヴェルは変わらない。実際に作業化しない仮定(予知)の筋も加わって、その虚構を幾度も往復する経路も量として嵩み、錯綜混乱の手前で、目の前に選別の果てのような現実に救われるという具合だ。

 こうした仕方の一体何処に、こちらの自己同一的表象化が在るのかと自らを問うと、おそらく救われる瞬間であろうかと思われた。少年野球をしていた頃の、投手となって捕手のミットに球がばすんと音を出して収まった時の、あの心地とよく似ている。今ならば、パカンとバットで打たれたとしても、同じような充足がありそうだ。