扱いの形をみえるように置くことを、試論として重なるものとすれば、結論めいた洗練を構築することに反するから、絶えず茶番地味ている。これがこの行為性の脆弱だが、ここを離れて象徴的な抽象性で行為も欲望も昇華される筈と演繹されるイメージにただ乗りするのは、生理的にも倫理的にも違和感が拭えない。
但し、象徴的な抽象性という表層を拒否するだけでは、茶番の繰り返しとなり、これでよい時空が用意されていればよいけれども、世界はそんなに甘くない。気づかぬうちに、端的な表層と試論としての行為性を併行させる手付きで、静止画像撮影とものづくりを行うことが長い間、剥離したまま右手と左手の対極に位置した分裂様を呈していたが、妙な加減で、横着も許すように、「無関係」な「併置」として、思想的な土俵に滞り無く臆面もなく見渡すことができるようになってきたようだ。
試論としての行為性から生じた形態の、様々な「あからさま」に示される決断や切断、決心のような人間的な呼吸を押し殺して、その「あからさま」自体へ迷い込む風な手付きとなり、つまり途方に暮れる認識以前の知覚初動の装置として目の前に顕すことが悦ばしいと思われる。象徴的な抽象表層は、手の届かない「あからさま」を示すだけの静止画像でよろしい。個人的なある種の達成として。
追記:
違和感に漂う愚鈍さに対して「拒絶」を明晰にすればよいということにはなる。