オチなし – no punchline –

花の香りか黄砂の匂いか放射線か。防波堤の縁のかたちに添うように歩いて、時期尚早とやや躊躇った半ズボンの脛に波風を受け、サンダルの指を伸ばしつつ、一体今はどんな季節なのか。花は散ったか。人に尋ねたい気がした。

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時どきの声のようだった

既に長い時間、私は自分の声を漏らすような衒いのなさで、都度終えている。
終えてきた辿りを振り返るような、少々肩がさがり力の抜けた放心は、幾度とない馴染みがあり、そうしてきた。こうしてきたなと呟くでもなかった。そういう「終わり」の簡潔を意識的に求めたわけではなかったが、時間と生きるとそうなった。それだけに過ぎない。それでよかったと感触も悪くない。

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The Tragedy of the Commons

概ね共有地(コモンズ)と共同体(コミュニティ)とは、公有地と私有地との差異以上の概念的違いがあるが、感覚的にこれは混同され、勘違いされることもあるようだ。
共同体はcommunityの訳語で、もともとのこの国には概念は存在しなかった。地域の定着村落がそのようであったとしても、自覚として共同というものは生まれにくい素地があった。
「同じ地域に居住して利害を共にし、政治・経済・風俗などにおいて深く結びついている社会のこと(地域社会)」
共有地とは、特定の多数が所有を共に分け持つ場所を示すのであって、これは共同体というものではない。

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レクイエム

放心の心地と真逆の責務のような促しに、レクイエムをあれこれ聴いてから、ロベルト・シューマン (1810~1856) 、ジュゼッペ・ヴェルディ (1813~1901)、ガブリエル・フォーレ (1845~1924)のレクイエムを並べるしか思いつかなかった。

鎮魂の表出に慣れていないというのではなく、他に何をどうすべきかが見いだせない。だが、これを考える為にこれまで生きてきたような切迫があり、時間と共に膨れていく。リスペクトやオマージュと似ているけれども、徹底的に違っているのは、「決別」「再生」を並べなくてはいけないことであり、而も、個別な喪失ではなく、ある意味全体的な喪失(破滅)に関する点だ。

簡単な「修復」で補えるレヴェルではないし、今回の壊滅的な状況は、システムのグランドゼロを目前にする立ち尽くすロビンソン・クルーソーのようなスタンスに瞬間移動したような心地がする。

この立ち位置を繰り返し考えなければならない。

指折り

左手の親指に痛みがあるので、形を確かめると嫌な形に内側の曲がっている。夢の中で痛みが失せた隙に自分で力まかせに指を折ったなと思った。あり得ることだと重ねて考えた。それ自体が夢に含まれていた。顎をひいて指をみれば痛みなどどこにもなかった。部屋の温度が外に近づいた寒さに目が覚めていた。窓の結露が凍っていた。

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