レクイエム

放心の心地と真逆の責務のような促しに、レクイエムをあれこれ聴いてから、ロベルト・シューマン (1810~1856) 、ジュゼッペ・ヴェルディ (1813~1901)、ガブリエル・フォーレ (1845~1924)のレクイエムを並べるしか思いつかなかった。

鎮魂の表出に慣れていないというのではなく、他に何をどうすべきかが見いだせない。だが、これを考える為にこれまで生きてきたような切迫があり、時間と共に膨れていく。リスペクトやオマージュと似ているけれども、徹底的に違っているのは、「決別」「再生」を並べなくてはいけないことであり、而も、個別な喪失ではなく、ある意味全体的な喪失(破滅)に関する点だ。

簡単な「修復」で補えるレヴェルではないし、今回の壊滅的な状況は、システムのグランドゼロを目前にする立ち尽くすロビンソン・クルーソーのようなスタンスに瞬間移動したような心地がする。

この立ち位置を繰り返し考えなければならない。