花の香りか黄砂の匂いか放射線か。防波堤の縁のかたちに添うように歩いて、時期尚早とやや躊躇った半ズボンの脛に波風を受け、サンダルの指を伸ばしつつ、一体今はどんな季節なのか。花は散ったか。人に尋ねたい気がした。
時間と並列業務の消耗のなかの「目的と実践」マニュアルをたどりつづけた経緯が、橋の途中でふと思い返されて、かくも構造の引き締めには、演繹的な「オチ」を想定し、そこへ邁進するという手法の、モダンであるがゆえの、つまらなさのようなものを、また再び欄干の向こうへ投げるようにしていた。リスクマネジメントも含まれるこの基本的なスタンスは王道なのだが、目的がすでに実践の前に片付いている風な「オチ」には、トートロジーとしての美学しかない。
こちら自身も、やれ文脈だとかいって、振り返ったものを目の前に並べる際に、現在の気分という「オチ」の中へ整理するような弛みに知らぬうちに落ち込んで首を傾げていた。統合的な構造を建築的な「オチ」と完結させることは、そもそもこちらの身の丈、心情とはズレている。都度、その時でしかないということのために、切り詰めた過去もある。
ひとり気侭な歩きの中で、気の振れたような観念に揺られ、今ここの身体性をどこかに落としていると、自販機で水を買い、喉に一気に半分を流してから、音を聴こうとまた歩いていた。
机に戻り、4本の万年筆の洗浄をして、みればひとつのペン先が折れている。残った三つに、新しくインクを補充し、それぞれでノートの上にインクを走らせたのは、一本の線ではなくこの国の言葉だったのがどこかおもしろい。