時どきの声のようだった

既に長い時間、私は自分の声を漏らすような衒いのなさで、都度終えている。
終えてきた辿りを振り返るような、少々肩がさがり力の抜けた放心は、幾度とない馴染みがあり、そうしてきた。こうしてきたなと呟くでもなかった。そういう「終わり」の簡潔を意識的に求めたわけではなかったが、時間と生きるとそうなった。それだけに過ぎない。それでよかったと感触も悪くない。

だから、あえてその「声」のような漏らしを、過ぎた時間から掬いとって、お膳立てを、新しく行うことには、そもそも衒いがあるのであり、まるで正装に着替えるような堅苦しさに、実は閉口していると気づく。
あまりに日常がそのような声で綴られていることの現実という意味での匿名性において成立している「終わり」は、ひっそりとした凡庸な反復でもあるから、花を育てるような個人主義の生来の性質と位置づけられてしまって仕方がない。実にそうであるとも思える。それでしかない。
そうした声の綴りをかき寄せて「衒い」を振り払うような、だが仕草をあえて考えたとき、そこに浮かぶのは固有な人間の名前や人間の顔や仕草であるから、野に垂らした小便を人に向けるわけではないけども、ゆっくりと同じような放ち去った「声」を復唱する意気地をもつことも、なにか悪い事ではないかもしれないと思う。そして後ろめたさのない「終わり」の声を差し出せば、それが声と同質である以外ないという正直さで、声自体と受け止める人間がいるかもしれない。あ、声が聞こえましたと。ただそれだけの軽さ、儚さにおいて、声の存在が木霊のように確かめられれば、再び、同じような声を、これまでと同じ仕方で終わらせていくことができそうだ。

人間の「声」は、もともとそのような率直さに嘔吐し、買い物の野菜を指差して「これください」と店の主人に向かうような短絡で、またあるいは震えて失語する呻きとなり、しかし、名前以上に人間がそこに蓄積されているから。良い流れへと考えをどんどん流してこちらも流れて、時々の声のようだった終わっている筈のショットを、またつくづく眺めることに精をだしている。