言わば展開

おそらく同世代に頸骨の手術かなにかで闘病した古井由吉の記述を幾つか浮かべたが流石にそれを選んで病室に持ち込むセンスは生まれない。闘病を名の通り戦う姿勢で記述する小説家たちはどこか浅ましく読みたいと思わないが、日常の営みの延長で仕方なく出会った境遇として不満を漏らしつつ愚痴をたらしつつそれでもその時々の知恵を注いで生を辛うじて紡ぐような病の描写は普遍へと翻るものだから好んで読みあさってきた。今回は自分が病室に居ることになったわけだ。

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苟且

今はもう事大主義はないかもしれないが、極端な情動の煽りや大袈裟な感情移入、あるいは饒舌過度な説明などに比べれば、その場かぎりその場凌ぎの一手一手を繰り返す稚拙さがいとおしい場合もある。というよりそればかりであるといっていい。

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手元

見えるところに散策で収集した枝やら小石やら草木やらがあり、時折ページを捲って抄写することも似ている。さてそれらを両手を擦り合わせ素材にしてなにか別なものにこしらえるつもりは毛頭ないし、奇麗な整理棚にコレクションとして並べることを繰り替えすわけでもない。五月蝿くなれば棄てている。

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雨の音から

私生児レオナルドが晩年育った山川の記憶を引き出しながら3年間描き続けたモナ・リザが愛人のジャン・ジャコモ・カプロッティであれ妊婦のリザ・デル・ジョコンドであれ、モナ・リザから離れた夜な夜な女の腹を切り裂き子宮まで広げて克明に生命の在処を男ではなく女に見いだして描写した倒錯的な感覚の中ではおそらく記憶と対象と幻視が入り交じって、彼の意識の中ではモナ・リザは描かれる対象から遠い彼方へ飛去っていたに違いないと、雨降る新緑が頭の先まで垂れ下がる山の道を歩いて転がしたのは、指先(筆)で触れ続ける撫でて現われるものを待つ反復が擦り込まれたタブローへ朝方懐かしさが溢れるように込み上げたからかもしれない。

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或いは失われた徴

二輪で走ることができる季節になった筈だが風はまだ酷く冷たくヘルメットのバイザーから巻き込むもので瞼から感情等無い涙がこぼれるので遠路を臨む気持ちにはなれない。

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