苟且

今はもう事大主義はないかもしれないが、極端な情動の煽りや大袈裟な感情移入、あるいは饒舌過度な説明などに比べれば、その場かぎりその場凌ぎの一手一手を繰り返す稚拙さがいとおしい場合もある。というよりそればかりであるといっていい。

三割を用意して一気に九割へ辿ったが残り一割が詰まらない。六割へ引き戻し八割まで戻したが最初の九割には勝らない。挙げ句が十割という考え方自体に問題があるとまで否ねてみるが最初の三割の勢いは形に遺っているのでこの三割という見切り自体から始めざるを得ないわけで、暫し幾度も途方に暮れる。ということを結局楽しんでいる。

明晰明快な現れを望みながら実はその実質を理念のようなビジョンに託している訳ではないということだ。変哲のない草木の日々の観測では捉えられない存在の醸すものの傍にいるという実感に近いかもしれない。「君ならどうする「ぼくならどうする」という音楽を聴きながら口ずさみウロウロと時空を彷徨うつまり日々の歩行自体がいつのまにか導く軀の位置というものがあり、それでしかないがそれで十分ということだ。