二輪で走ることができる季節になった筈だが風はまだ酷く冷たくヘルメットのバイザーから巻き込むもので瞼から感情等無い涙がこぼれるので遠路を臨む気持ちにはなれない。
スキー場の脇に小さく広がる水芭蕉群生地をこんな場所にあったのかと初めて気づいて散策し木で組まれた歩行路を休日で賑わう人と進み気象の気まぐれに草臥れたような仏炎苞の季節特有の鮮明さを喪失している様を景の一部として観測する。鑑賞ではなく正に観測なのだと注視の性質を観念で差別化する歩みともなり併し根茎のアルカノイドは冬眠後の獣の為だと尖った観測者の横顔を浮かべこちらの観測は散漫であるが故のとまで謙った。
そもそも肉体的な眼球視覚視力という体感で全うできないのは写真機に依存するからであり手ぶらの歩行が最近はどこか不足を感じること自体軀の不全を証しているが、レンズが凍結した静止画という抽象を観測へ回帰する時間が知覚ルーチンとなりその反復が示す観測体感というものは在る。これは暫しレンズの行方に踊らされるけれどもそれにも慣れれば抽象開示された世界把握を全く異なった次元で行う感触は益々強くなる。その脅迫、切迫地味た把握感に顕われる徴のような認識体があって物理的にも印象としても失われたそれとしてセンチメンタルな佇まいを輝かせる。
その幽かな兆しの徴を表出する唯物的変換を試みると観測体感の手触りのようなものが陰影を持つ物形となるわけだ。