おそらく同世代に頸骨の手術かなにかで闘病した古井由吉の記述を幾つか浮かべたが流石にそれを選んで病室に持ち込むセンスは生まれない。闘病を名の通り戦う姿勢で記述する小説家たちはどこか浅ましく読みたいと思わないが、日常の営みの延長で仕方なく出会った境遇として不満を漏らしつつ愚痴をたらしつつそれでもその時々の知恵を注いで生を辛うじて紡ぐような病の描写は普遍へと翻るものだから好んで読みあさってきた。今回は自分が病室に居ることになったわけだ。
狭い四人の相部屋でカーテンで仕切られているけれども成り行きか入院期間の長い者から導かれる待遇か窓際と壁際では空間の広がりが違う。けれども病の重篤度に応じるならば、こちらの喉の痛みなどこの部屋のゴミ籠程度の空間で済むかもしれないとおもったほど他の患者は新米入院患者の気がひけるほど重傷だった。
A.C.クラーク「3001年終局への旅」、フィッツジェラルド「若者はみな悲しい」、ロラン・バルト「映画論集」、スーザン・ソンタグ「この時代に想うテロへの眼差し」4册をラップトップ、着替えと一緒にバッグに詰め込んで入院する。看護師に尋ねると病室ベッドにてラップトップのオンラインOK。抗生剤投与を交えた終日点滴がはじまる。