只管に単独行を突き進むことから逃れようとする理由は、その真直ぐな道が自意識となって凍りつくのではないかという怖れがあるからだという自覚というより生きた時空から育まれたものがまずある。とはいってみても土台、個体にすぎない独りなのだから、生きる以上、生来の方向性のようなことから逃れようはないけれども、俯瞰の視点を上空へ上昇させれば、累々とヒトと時間の群が見えてくるわけで、この霧のような逸脱ともいえる垂直上昇が蛇行という冷ややかな内外の印象になっているような気がする。上昇したままだと相対的なバーチュアルが躯に染み渡ってしまうようだが。
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