諦めの縁で

距離を拡張しようと考えた翌日の早朝に走ると、はじめてこれまでの五分の一の距離で心が割れて家に戻り歩いていた。
その項垂れた徒歩の脱力の中でなんでこんなことになったかなどという理由を考える気持も浮かばなかったが、ふと横を眺めその光景をひとつも描写していないといきなり痛切に感じるのだった。

振り返れば、自らが決定を繰り返し、決心を繰り返し、迷いを露呈し、つまり、「わたしはどうしたこうした」ばかりであり、それが唯一の現実だと思って、今日の飴は甘いとかいったことしか残していない。冷や汗が流れる。あの樹々に囲まれた窪地に立つ二人か三人の男の歩みの図形の中で彼らが何を語り返し、あるいはどこへ向かうかを構想しなければいけないと、すっかり走りなど忘れた表情でパスタを茹で始めた。

一昨日に、「存在の気配を消す男」を妄想し、彼は病気などせず事故にも遭わず罪も犯さず淡々と延々と生きるのだが、その痕跡がまるで世界からかき消えることを自ら欲望に捉える男の、寡黙な丸く座ったシルエットが浮かぶのだったが、それを記述する術が見当たらない。

そしてふと、術はデバイステクノロジーのような外部性によってしかもたされないと、再び走りながら撮影できるカメラやらの準備を始める。