蛇行

只管に単独行を突き進むことから逃れようとする理由は、その真直ぐな道が自意識となって凍りつくのではないかという怖れがあるからだという自覚というより生きた時空から育まれたものがまずある。とはいってみても土台、個体にすぎない独りなのだから、生きる以上、生来の方向性のようなことから逃れようはないけれども、俯瞰の視点を上空へ上昇させれば、累々とヒトと時間の群が見えてくるわけで、この霧のような逸脱ともいえる垂直上昇が蛇行という冷ややかな内外の印象になっているような気がする。上昇したままだと相対的なバーチュアルが躯に染み渡ってしまうようだが。

横から見れば、蛇行ではなく、上下に上り下りしているだけの真直ぐな道と示されれば、それはそうかもしれない。

これまでには個体の傲慢な都合を優先する傾向に満ちた時空もあっただろうが、生きてきた時空から促される「私」という欲望は、「探る」行為自体に発芽し横たわっていて、これは、子供の頃天体望遠鏡を覗いてよくみえるがだからといってあれは何かわからないという、そのままでは思弁的な殻をこしらえる手付きだけが器用になるけれども、探索のその向こう側は、端的に言えばあまりに「未知覚の世界」であり、これは見たことがない世界という意味ではなく、見方が判らない、知覚メソドの失せた世界の有り様に気づいてしまったことの、極端に言えば大いなる絶望が前にあって、つまり、おそるそるどのように世界を捉えるべきかと動く行動しか残されていない。

森の中を彷徨い歩くようになり、良い悪い、綺麗だとか汚いとか、正しい悪いという、判断とか印象からすっかり離れた実感を、樹々の隙間の空を見上げる度に、憶いだすのではなく、むしろ忘却していくことは、審美的な関心を棄てたようなものともいえる。風雨に晒された手すりの傷みをいかに修復すべきかということと、風雨に晒されることとは、どのような知覚なのかを同時に考えることのほうが、日々切実である。