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言葉行

常に言葉に牽引されることをよしとした愚鈍な歩みめいた辿りの中途で、浮かび上がる映像のような景色にさらに促される筈が、あまりに瞬間の静止画像のような出来事に積上る言葉のせいで、断片が結晶化し孤立するような感触がある。

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触れること触れられること

 自分になにが出来るのかという利己的な造形感覚は最早ない。出来るのか出来ないのか(責任=無責任あるいは維持=放棄などといった)の二項対立、二択で生命を閉塞させるのは馬鹿げているし、造形ではなく生き方(思想)であり、気持ちよく生きる倫理のようなものが都度健やかで率直なビヘイビアとなるだけ。

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即立言流

 陽光の雪の反射が眩しさを放つ頃は光の中というよりも外側へ撥ね除けられた目つきをしている。そう判ったのは夕方の斜光の裏に伸びた影に冷ややかな色が忍んで光の減少が誘うような新しい「光ノ内」があったからだった。この季節は終日大気は澄み切っているのでそのせいもあるのだろう、一度は溶かされたものが冷えて不細工に硬直して反射する砂鉄のようなものに変わり、ところどころに楔を打ち込むように色彩の境界を標していた。

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カラダ

 また素足で下駄の無頓着を出先で指摘され、余程可笑しな格好なのだろうかと今更に反省してみたが、先日の靴下と革靴での歩きの居心地の悪さを思い返し、生活の日常がそうしているだけであって、居心地の悪い感触であっても必要が繰り返されれば、いずれそれにも慣れるにすぎないと一人ごちた。手首を見れば皺が目だつようになった。週に一度か二度の髭剃り髪剃りの他は鏡など覗かないし風呂では鏡が曇っているのでまじまじと自身を確認することもない。身体あっての物種だから、せいぜいカラダのことを考えようと他人のモノのように捉えることがこんな年齢になってからとは遅すぎる。

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実現の荒涼から

ともすれば振り返った仕草を辿る観念の上澄みを撫でれば済むかの初動ではあったが、長い間仕舞い込んでいた事を痛切に抱きしめる時と場を得た現実感に従う開き直りもそれを後押ししている。こうした身体的な現実への関わりは十二年の空白があり、それによって保たされた肉体の痺れを躱すためは歩行と同じ反復を写真という仕組みにのみ投影させ、どこか身を後ろに引いた距離感のある視線だけで過ごしていた年月がこちらにはあり、無論これはすり替えではなく写真自体への関わりは三十年近いのではあるけれども、写真といったことが代理する悉が数多形振り構わぬ格好となった。

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