触れること触れられること

 自分になにが出来るのかという利己的な造形感覚は最早ない。出来るのか出来ないのか(責任=無責任あるいは維持=放棄などといった)の二項対立、二択で生命を閉塞させるのは馬鹿げているし、造形ではなく生き方(思想)であり、気持ちよく生きる倫理のようなものが都度健やかで率直なビヘイビアとなるだけ。柔らかい波長の深海を自由に泳ぐ動物の声を聴きながらはっと悟るようになにか新しさを知るのだった。こちらは植物のようなものだ。簡単なことだ。すると不思議に今という時点に未来も過去も明るくあるがままに照らされる。贖罪とか責任といった観念も古臭いストレスとなる気がするのは楽観的すぎるだろうか。光の中へ愛しみを与えて得る日々をニュートラルに実践する一見浅薄な短絡を都度悪びれすに抱きしめればいい。ただ光の中はこちらにとってはまだ眩しいから指先が届かないので哀しみはまだある。

 個的な快楽衝動にははじまりと終わりという短い原生動物のように完結した帰結があって、その短いベクトルを呪うような別の文脈が奇跡的な契機を得て太くなり、花火のような快楽とは異なる存在への讃歌に似た愉悦の眺めとして、例えば遠距離恋愛の想像力を考える。欲望もひとつ手のひらに乗せてみれば、利己的な括りのうちは利己的にしか処理されないが、重ね合わせてふれあう手のひらの摩擦と熱で互恵的な広がりに融けていく欲望の混濁(解体と変容であっても)をピーク(幸せ)とすれば、個的な快楽衝動自体が位相レヴェルにてその孤独が融和され、隣にあるトリガーによって混じり合うしかない敬愛に変異するということだ。