また素足で下駄の無頓着を出先で指摘され、余程可笑しな格好なのだろうかと今更に反省してみたが、先日の靴下と革靴での歩きの居心地の悪さを思い返し、生活の日常がそうしているだけであって、居心地の悪い感触であっても必要が繰り返されれば、いずれそれにも慣れるにすぎないと一人ごちた。手首を見れば皺が目だつようになった。週に一度か二度の髭剃り髪剃りの他は鏡など覗かないし風呂では鏡が曇っているのでまじまじと自身を確認することもない。身体あっての物種だから、せいぜいカラダのことを考えようと他人のモノのように捉えることがこんな年齢になってからとは遅すぎる。
ぶつぶつ謐きつつ雪の道を歩いて、冬には下駄に草履では駄目だなと笑う。下駄と草履で培われる歩き方というものもありそうだ。そんな足腰があるとしたらそれも気にいらない。瞬発力に溢れる下駄箱のシューズにてカラダを動かす冬の日常を過ごせばいいとまで進めて、やはりまた走るかと。あるいはまた早朝の撮影散歩から撮影制作へシフトするかなと。妄想は繰り返されて振り出しに戻り、兎に角ルーチンとしての歩みをイメージする。