長野電鉄桐原駅までの、10分ほどの道を歩いて駅の時刻表をみると、長野駅方面行きが17:00。その前が16:23と、37分の間があり、腕時計は4時半を回ったところだった。
プラットホームには、寒風を遮断する待合室というものがなくて、秒針の経過と気温の低下が結ばれるような夕方に半時間もこの場所で電車の到着を待つなんてどうかしている。最初は滅入った。だが対策を考える事を放棄し取り留めも無くあたりを散漫に眺めながら、数十年前から幾度も目にしていた倹しい駅舎は変わらずにあるのだと気づいて、とにかく目的も無くこの駅から電車に乗っていたことをあれこれ憶いだした。
移動の起点が此処だったのかしらと、そういえば、上京を決めて、憶い返せば吹き出してしまうような荷を持って、幾度も山の向こうを漠然と睨むように列車の窓に額を預けていた。あの時の記憶が克明になりそうになると、中年の身体に収まる筈の意識だけが逆流するような気配に、少々慌てるのだった。
駅前や途中の繁華街へと電車に揺られ、「街に出る」。そしてかなり早い終電の時刻に飛び乗って、この駅に降り、家までの夜道を歩いた俯き加減が幾度も微妙な差異を伴った「帰り道の時」がくるくる巡り戻るに任せた。
おかしなもので、半時間も真冬の夕刻、プラットホームで列車を待ったけれども、待つことを忘れていた。気づけば、いつの間にか数人が同じようにコートの襟を立てつつ両手の中に白い息の玉をこしらえて立っている。なんだか作り物の映像の中に座っているような感覚が、列車の到着で壊れるような気がした。
普段、息災を気にとめず過ごす時には、手に余る書物の辿りが、病の中の身体の崩壊感の中でなぜか別筋を引き寄せることがある。見失っていた「見極め」のようなものであるのが、また妙だが、崩壊のもたらす身動きのとれなさが、一筋に向かうのかもしれない。
こんこんと気管支のあたりの痛みをともなって咳をしながら、娯楽へ身を預ける気持になれないのは、本来娯楽性とは、奔放な生の力を漲らせた上で享受するものだからだろう。かといって、ただぼんやりと無心を遊ばせることは、病みの中へダイビングするような無謀であるので、こちらが選べることはつまるところ、何か只管な、他者の俯いて目に光の灯ったような眼差しを眺めることしかない。
「神秘の人びと」 / 古井由吉 / 1996年発行を、鼻水と咳で口元を捩らせつつ書棚から取り出して捲ったのは、吉増剛造の透谷への探求と、平出隆の伊良子清白へのにじり寄りから促されてはいた。初読の時には、ふ〜んと出版当時、還暦を迎える2,3年前の作家の年齢などを、漠然と考えていた記憶がある程度で、そうした年齢の人間の目の灯りと、当時は次女が生まれたばかりの、錯綜と自制の混乱を旺盛に過ごしていた自身との落差で、一読後振り返らずにいた。世紀が変わってから再読したが、その時は、こちらが猛々しい策士とならざるを得ない状況があり、これもまた見極め時を失っている。
修道士アエギディウス (Aegidius)が、神の顕現を目撃して信仰を棄てる。というマルティン・ブーバーの記述に関して、作家はそのパラドクスを探求するわけだが、病中の見極めは、この「寓話」の、所謂、極東の凡庸な解釈ではなく、ある普遍の「気づき」の象形として、この身に流れ込んだ。カメラを覗く日々と、繰り返して残された静止画像を眺める日々との、同期も生まれる。
Winfried Georg Maximilian Sebald (1944~2001)
-Sebald’s works are largely concerned with the theme of memory, both personal and collective. They are in particular attempts to reconcile himself with, and deal in literary terms with, the trauma of the Second World War and its effect on the German people. In On the Natural History of Destruction (1997) he wrote a major essay on the wartime bombing of German cities, and the absence in German writing of any real response. His concern with the Holocaust is expressed in several books delicately tracing his own biographical connections with Jews.
His distinctive and innovative novels were written in German, but are well-known in English translations, principally by Anthea Bell and Michael Hulse, which he supervised closely. They include Austerlitz, The Rings of Saturn, The Emigrants, and Vertigo. They are notable for their curious and wide-ranging mixture of fact (or apparent fact), recollection and fiction, often punctuated by indistinct black-and-white photographs, which are set in evocative counterpoint to the narrative rather than illustrating it directly. All of his novels are presented as observations and recollections made by Sebald while travelling around parts of Europe. They include a dry, mischievous sense of humour.
Sebald is also the author of three books of poetry: For Years Now (2001), After Nature (1998), and Unrecounted (2004).-wiki
土星の環ー出版社からのコメント
<私>はイギリス南東部を徒歩で旅し、過去何世紀にもわたる様々な破壊の跡を目にした。海辺で、資料館で、<私>の連想は、帝国主義時代のオランダの過去、ワーテルローの戦場跡を訪れた記憶、バルカン半島における虐殺の歴史、アフリカ大陸でのベルギーの搾取や略奪などへと続いていく。
<私>は旅先で多くの人びとと出会い、過去の様々な人びとを想起し、その生涯を辿る。コンゴで植民地主義の狂気を目の当たりにし、『闇の奥』を書いたコンラッド、「理想の国民」たる蚕を偏愛した西太后、フランス革命前後の激動をくぐり抜け、回想録『墓のかなたから』を書いたシャトーブリアン……。
最後に<私>は、中国からヨーロッパにもたらされ、各国で国家事業として育成された養蚕に思いをはせる。養蚕を国家意識高揚に結びつける企図は、百年後ナチによっても鼓舞されていた……。
思索や連想の糸がたぐられ、ヨーロッパ帝国主義による破壊と自然がもたらした災厄、古今の文人たちの生涯を辿っていく。誰も振り返らない往古の出来事、忘れられた廃墟が、時空を超えて呼び戻される。境界がなく、脱線と反復を真骨頂とする、ゼーバルト独自の世界。解説=柴田元幸ーamazon
Legs On: Honda’s Walking Assist Devices from Gizmodo on Vimeo.
HONDA ASIMO 歩行アシスト
受動歩行の動画 / 名古屋工業大学 藤本研究室・佐野研究室
ブレインマシンインターフェイス (ICORP)