普段、息災を気にとめず過ごす時には、手に余る書物の辿りが、病の中の身体の崩壊感の中でなぜか別筋を引き寄せることがある。見失っていた「見極め」のようなものであるのが、また妙だが、崩壊のもたらす身動きのとれなさが、一筋に向かうのかもしれない。
こんこんと気管支のあたりの痛みをともなって咳をしながら、娯楽へ身を預ける気持になれないのは、本来娯楽性とは、奔放な生の力を漲らせた上で享受するものだからだろう。かといって、ただぼんやりと無心を遊ばせることは、病みの中へダイビングするような無謀であるので、こちらが選べることはつまるところ、何か只管な、他者の俯いて目に光の灯ったような眼差しを眺めることしかない。
「神秘の人びと」 / 古井由吉 / 1996年発行を、鼻水と咳で口元を捩らせつつ書棚から取り出して捲ったのは、吉増剛造の透谷への探求と、平出隆の伊良子清白へのにじり寄りから促されてはいた。初読の時には、ふ〜んと出版当時、還暦を迎える2,3年前の作家の年齢などを、漠然と考えていた記憶がある程度で、そうした年齢の人間の目の灯りと、当時は次女が生まれたばかりの、錯綜と自制の混乱を旺盛に過ごしていた自身との落差で、一読後振り返らずにいた。世紀が変わってから再読したが、その時は、こちらが猛々しい策士とならざるを得ない状況があり、これもまた見極め時を失っている。
修道士アエギディウス (Aegidius)が、神の顕現を目撃して信仰を棄てる。というマルティン・ブーバーの記述に関して、作家はそのパラドクスを探求するわけだが、病中の見極めは、この「寓話」の、所謂、極東の凡庸な解釈ではなく、ある普遍の「気づき」の象形として、この身に流れ込んだ。カメラを覗く日々と、繰り返して残された静止画像を眺める日々との、同期も生まれる。