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時間往復歩行

 月のはじめに冬の素描やらを展示し、散らかった部屋に戻って暫し途方に暮れた。傘張り地味た単調愚鈍な手元に嵩んだ鬱屈を払うように、再び小さな工作の反復を引き戻し、片付けもそこそこに、素描で膨らませた光景のような幻影を、手元に試される矩形構成に消しゴムのような効果を与えてはまた炙り出す。芽吹きを待つと同じ感触で、素材の尽きるまで繰り返していた。

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何が描きたいのか?と尋ねられて

 ギャラリートーク(主宰者は茶会といった)にて、進行役のナカムラジンより尋ねられて、ああ、あなたはモノをつくる人間で、こちらは「成る」ことに感(かま)けていると答えたが、おそらく伝わっていないと感じた。関わる事象を完成帰着させるつもりはないと続けたせいで、「成る」の誤謬は広がっただろうと、帰り道若干反省して振り返っていた。主宰進行役から、お前はエッセイ等内容がわからないので書かない方がいい、俳句とか短歌とかのほうがいいと言われ、これは判り易い絵を描けと言われたも同然だと、小さな(まあ米粒程度の)ショックだった。彼の言いたい事はわかるけれども。

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101519

[Chorus]

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インターバル

 制作構築上の、素材乾燥を待つという都合で、事象の交渉作業が途切れ、そんな時は併行している別へ横移動するけれども、取り組む制作作品毎に作業形態が異なっているので、なかなかすんなり差異のある創作気概の移行はできるものではない。大方は無理だからあっさり諦めて散歩や外部への用事で数時間を車などで離れることも、最近は頻繁にあり、こうした宙ぶらりんのインターバルの最中で断片化された思考は整理されるものだと知る。中断される身体的な作業の、それぞれ個別な事に、全面的に思念が注がれているわけでは勿論ないが、竹の節々のような分節でもあるこうしたインターバルに、そこそこせき止めていたようなことが流れはじめて渦をつくる時間の溜まりのようなものを眺める気持ちになることは、ある種健全だろう。

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最近の創作所感から

 ピッツアの上に蕎麦を乗せチーズをふりかけて山葵を皿の脇に置く。つけ汁とタバスコを横に置いて口元の耄碌を憶いだすように振り返っている。そんな始末を途方に暮れて繰り返している。
 創作のことだ。三十代から四十代までの二十年程の旺盛な時には、ブランディングと創作を結んで真っすぐな道を、折れ曲がりながらも歩いたけれども、振り返れば浅ましい没頭だと憚った五十代は、全うなクールダウンのようなものではなくて、寧ろ乱雑乱暴にかき寄せた過去の記憶や物理事象の「併置」に手をだして、散らかっていくに任せるという塩梅だった。
 局面の異なる折衝所作が、一挙に目の前に広がるようなことに、片付けるつもりがない気持ちが被さって、「あの時こうした」「ああしておけばよかった」という所作残滓が差別なく転がるものだから、「今はこうする」という意思決定を鮮明に行なうという整えの方向は萎びて、間違いも正しさも同等に眼を細めるような扱いとなり、弛緩した寛容ともいえる無邪気の生成に身を委ねている。

 面白いのは、こうした創作所作が私という個体の、都度幾度となく試みた「修正」の間違いを、今更の「修復」となって正すかに、時々の些末な事情によって頓挫した「果て」「その先」を、今一度見通し良いものとする作業であると、気づかされることだ。創作物に積まれる行為痕跡は、故に溜息を握り飯のようにした「複合的」なモノとなり、おそらく死の間際で胃袋に溶かされる。

 私とは真逆に、几帳面に片付ける性情に人生の後半を費やす者の心情を浮かべると、羨ましいと思うより、完成・旺盛へ時間退行する無理矛盾が哀しい。