時間往復歩行

 月のはじめに冬の素描やらを展示し、散らかった部屋に戻って暫し途方に暮れた。傘張り地味た単調愚鈍な手元に嵩んだ鬱屈を払うように、再び小さな工作の反復を引き戻し、片付けもそこそこに、素描で膨らませた光景のような幻影を、手元に試される矩形構成に消しゴムのような効果を与えてはまた炙り出す。芽吹きを待つと同じ感触で、素材の尽きるまで繰り返していた。

 月末に予定していた家族旅行をキャンセルしたが、合わせて有給を取得済みの次女は来るというので、工作と冬そのものの散らかりを片付けては、やおら外に出て、撮影をしながら狂った気象の日々の中、ただ歩いた。一年前も壊れたリズムの季節を感じていた。今年の社会的世界的な感染病の席巻は、気象のどこかに作用するのだろうかと逆さまを、頭を傾げたまま、乱調に幾度も裏切られているかの、植物の先端をしげしげと近寄って触れていた。いつになく濃霧の日々が続いた。
 片付けた空間に、瞼に止まった数年前の平面をまた置いて加筆をはじめたのは、身体が冷えた歩行の後、視線がまっすぐにその平面に向かったからであり、そこに完結していないことを了した認識を自らが亡失しない裏切らない気持ちがまずそうさせた。

 葉の落ちた、捩れた枝が遠近を失って錯綜する虚空を、撮影画像で眺めては、その冬枯れから、幾筋かの系をつまみ出すような振る舞いとして、自身を見つめる時が繰り返され、時に百年前の麗しい画像をみつめて、その画像の由縁と歴史をたどりつつ、そうした過去の眩しさを瞳に淀ませたままの加筆となった。同時に走り始めのような契機を与えたまま進行が頓挫している画面がふたつあり、そこへは未だ振る舞いを与えることができないでいる。多分、今一度素描を介することで、とりつくことができるだろう。

 よく知られた人間がふいに亡くなる報せが届き、こちらがふいに消えることもあるのだろうと思いながら、やはりできることは限られていると噛みしめるように、外を歩くだろう。