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制作構築上の、素材乾燥を待つという都合で、事象の交渉作業が途切れ、そんな時は併行している別へ横移動するけれども、取り組む制作作品毎に作業形態が異なっているので、なかなかすんなり差異のある創作気概の移行はできるものではない。大方は無理だからあっさり諦めて散歩や外部への用事で数時間を車などで離れることも、最近は頻繁にあり、こうした宙ぶらりんのインターバルの最中で断片化された思考は整理されるものだと知る。中断される身体的な作業の、それぞれ個別な事に、全面的に思念が注がれているわけでは勿論ないが、竹の節々のような分節でもあるこうしたインターバルに、そこそこせき止めていたようなことが流れはじめて渦をつくる時間の溜まりのようなものを眺める気持ちになることは、ある種健全だろう。
ピッツアの上に蕎麦を乗せチーズをふりかけて山葵を皿の脇に置く。つけ汁とタバスコを横に置いて口元の耄碌を憶いだすように振り返っている。そんな始末を途方に暮れて繰り返している。
創作のことだ。三十代から四十代までの二十年程の旺盛な時には、ブランディングと創作を結んで真っすぐな道を、折れ曲がりながらも歩いたけれども、振り返れば浅ましい没頭だと憚った五十代は、全うなクールダウンのようなものではなくて、寧ろ乱雑乱暴にかき寄せた過去の記憶や物理事象の「併置」に手をだして、散らかっていくに任せるという塩梅だった。
局面の異なる折衝所作が、一挙に目の前に広がるようなことに、片付けるつもりがない気持ちが被さって、「あの時こうした」「ああしておけばよかった」という所作残滓が差別なく転がるものだから、「今はこうする」という意思決定を鮮明に行なうという整えの方向は萎びて、間違いも正しさも同等に眼を細めるような扱いとなり、弛緩した寛容ともいえる無邪気の生成に身を委ねている。
面白いのは、こうした創作所作が私という個体の、都度幾度となく試みた「修正」の間違いを、今更の「修復」となって正すかに、時々の些末な事情によって頓挫した「果て」「その先」を、今一度見通し良いものとする作業であると、気づかされることだ。創作物に積まれる行為痕跡は、故に溜息を握り飯のようにした「複合的」なモノとなり、おそらく死の間際で胃袋に溶かされる。
私とは真逆に、几帳面に片付ける性情に人生の後半を費やす者の心情を浮かべると、羨ましいと思うより、完成・旺盛へ時間退行する無理矛盾が哀しい。