パラレルワールド

 量子論から超弦理論が、並行世界、並行宇宙、並行時空の妄想をかき立てることもある。SF妄想に遊ぶより先に、今節の我々は既に、「私」各々が個別世界なのであって、例えば、インターネットを使う人びとと、TV放映を眺める人びとは、パラレルに見事にずれた平行世界を生きていると思う事が屡々在る。更に世代や性情傾向、右か左かなど立ち位置や所属を細分化してみれば、益々そのパラレルのズレ、差異、平行の距離は広がり、普遍から落ち込んだ意識構造そのものが、相容れない傲慢な自立性を他へ無理矢理放射しているようにも感じる。溢れる情報の選択からはじまったかもしれないこうした立ち位置は、やがて確信犯的に情報廃棄とそれ自体を嫌悪する場合もあるだろう。

 社会と一言で括る普遍的な一般性は、こうしたパラレルな権利で刻まれており、分裂した土台に於いて検証されるあれこれも、それぞれ独自な倫理の軸が建てられている。「法」が問われる世界は、これまでなく騒々しく、知らぬうちに眼や耳を奪われて、兎に角喧しい。
 
 マイノリティー、否単独と自覚ある展開世界を、固有名同様孤立的に生きることを選び、前記したドグマ、傾向や所属からの支配を逃れ、時には意識的にやや俯瞰の高度を上げて霊的な無頓着で世を眺めれば、パラレルな昏迷の初動としての、かつての熱狂的な革命やら統合的な理念に類的に突入した情景が滑稽な絵巻にみえる。こうした時勢に「私」について繰り返す制作も、取り付く島の仕様によっては、パラレルであり、せいぜい脳みそもふたつに分かれているのだから、ふたつくらいのパラレルワールドの往復を、歩行の速度で呑気に繰り返せばいい。