父親の名と族系幅

 血液検査の必要があった施設入所中の母親を搬送する車内で、私にとっての曾祖父のことを尋ねると、母親は曾祖父の名は即座に口にしたが、曾祖母の名を失念していた。高祖父母などほとんど知らないようだった。どの家族でも同じように、子は母方の系への馴染みが深いもので、父方は祖父高齢での五人兄妹末っ子であったため、私は産まれたてで白い髭に触った記憶がぼんやりある程度で、そもそも父方の実家はあれこれあって破綻離散している。戦前戦中までは、かなりの豪農で、長兄は人力車で学舎に通ったと父親が話してくれたことがあり、父親とは十五歳の離れた祖父が亡くなる前から父親代わりの長兄伯父によって、私は命名された。祖父は、後先考えず国の勝利を確信し田畑を国へ惜しみなく提供し、大本営設立にも関与していたらしかった。長兄と次男の伯父は、戦争に出兵したが、死なない部署に配属され無事に帰国しているが、長兄は撃たれて金玉を失い子のできぬ軀となって実家を継ぐ事を辞退した。父親が十代の頃大病で入院していた際に、地域ではトップの肩書きを持つ軍人がほんの子供の見舞いに訪れ、周囲を驚かせという。私が八王子の大学に通いはじめて、西八王子にある造形美術という画材店主の正村氏から、お前静の息子かと、もともとぎょろっとしている目玉をさらに大きくして迫られたことがあり、後に酒を交わしながら、まだ十代の学生風情の父親に世話になったと話してくれた。これを父親に話すと、あまり憶えていないが、まだ父親の実家は体力があり、米もあったから、それを渡したことがあったかもしれないと答えた。

 私が高校に通う一年の春に、数人の教諭から、お前は静の息子かと問われた。父と子が二世代に渡って同じ高校に通うことになったので、長々と教鞭をとる人間が在職しており、学生の頃の父親は腕白であったようで、教諭らの記憶に残っていたらしい。私も校舎に地下室を掘り、停学間際までいったことがあり、両方を知る教諭は妙な得心を持っただろう。

 車内の母親に向って記憶を辿ってくれと問うたきっかけは、母系にしろ父系にしろ私にとっては一世代30年のスパンで親が子を持つサイクルと考えて、せいぜい三世代90年が、伝え聴くことの可能な幅であるなと合点しつつ、併しそれにしても、それぞれの世代が、伝承を前向きに語るような時代ではなかったと弁えるようなところがあり、ここ数年、百年と千年という時間幅での、この国の人間の意識を辿るようなことをしていたせいもあって、ふと末っ子の父親の名である「静」という命名に関して奇妙だなと感じる節があり、これも加えて母親に尋ねると、ああそれは祖父が農家の人間であるくせに、書家を名乗り文人気取りで洋書を捲り、お茶を嗜んでいたからよと答えてくれたが、これは母親の思い込みがかなりあるように思えた。私は口にしなかったが母親に、お前も農家の出じゃないかと転がしていた。祖父本人と長兄の名前には「武人」を意味する文字が与えられており、末っ子の父親誕生は、戦前の猛々しく高揚する国体の時節であった時に、なぜだろうかと私は、祖父の意識に寄り添うことは可能かなどと考えていた。家の継承を辞退した長兄伯父が、結婚間際の母親に、家を継いで欲しいと頭を下げたが、農家に嫁入りしたくない母親は断って、家は仕方なく、妹叔母に婿をとらせた。母親も農家の生まれだが兄妹の一番上の長女で、祖父に箱に入れられ農作業をしたことがない。弟の叔父たちが働いたのはオレたちだけだと幾度かぼやいたが、弟二人は学者となって、ひとりは既に亡くなった。
 母系の祖父母は、1929年に母親を産み落としているが、祖母との結婚は所謂光源氏宛らの略奪婚であったという。祖母は聡明な人で、私は随分かわいがられ、屋号に祖母の名を頂いている。習い事を行う家の出であったらしいが、しかし高祖母のことは聴く事はできなかった。祖父は厳しい高祖母の躾のせいか、まだ結婚前の青年の頃、県では数名の近衛兵となり、皇居を守る仕事に就いている。祖父の弟は戦死している。まだ幼い学舎に通う前の私が母親の実家に預けられた時に、寡黙な祖父は私に竹馬を拵えてくれて、私はそれを随分練習し喜んで歩き回った記憶がまだ鮮明にある。

近しい者から伝え聴くことが、どれほど実相そのものであるかは、甚だ疑わしいもので、口を開く者とその対象にとって都合の良いように時に簡略化され、あるいは矯飾的であると感じられることがある。特に環境や社会状況の変容の凄まじい高度成長期を辿った私の父母の世代では、戦前戦中の謂わば貧相な状態から自在な自立空間を得て行く時空とのギャップがあるので、過去を声高く語ることは自制する傾向がある。