宮澤賢治

ー「小さな谷川の底を写した二枚の幻燈」を説明する口上といった形式で、小品「やまなし」が岩手毎日新聞に発表されたのは、大正十ニ年(1923年)四月八日 ー 偶然の一致かどうか、降誕会である ー だから、時あたかも映画の黎明期に当たっている。一歩しりぞいて幻燈と名のっているけれども、作品の内容はとても一枚の静止した画面につくせるものではない。泡が流れ、光と影がゆらめき、魚が泳ぎ、かわせみが飛びこみ、樺の花びらがすべる。これは映画でなければ表現できない素材である。日本ではまだ海のものとも、山のものとも知れぬ新芸術・活動写真の可能性について、作者が熱い心を寄せているのは明白ではなかろうか。それは大正十五年(1926年)に書かれた「農民芸術概論綱要」に、「(光象の)複合により劇と歌劇と 有声活動写真をつくる」とあることからも察せられる。

 もし自分が監督して映画をつくるとすれば、さしあたり何を撮ろうかと、二十六歳の青年は夢想したにちがいない。大平原を疾走する馬の群といった極大にちかい風景よりも、むしろ極小の場面に心がかたむく。小動物の生活領域を細密に写すことができたら、どれも興味津々たる作品になることは保証つきだ。しかし、蜂や蟻の巣穴のような<内部>をどうしたら撮影できるだろう。そこは人間の眼のとどかぬ闇であり、真のドラマはそこで生起しているにきまっている。では写真機をそこへ到達させればよいのか。写真機が人工のものである限り、それがとどいたとき闇のなかで起こるのは恐怖にもとづく混乱ではあるまいか。小さな闇に衝撃を与えることなく、<内部>を見まわすことのできる<眼>がほしい。

 このように考えた作者は、<内部>にさしむけられるカメラが生き物の小さな眼であれば不都合はないはずと、あれこれ選ぶうちにサワガニのこどもにたどりついたのであろう。それなら<内部>はおのずから定まる。春の雪どけ水は、梅雨どきのように赤茶けてはいないが、錆色をしている。水量が豊かで流れがはげしいから、外光をじゅうぶん通さないために、このカニの目玉の水中カメラからすると、下から上を見あげた天井にあたる場所はすりガラスのようにぼんやり光っている。そこへ泡が流れてきたら、底面はその部分だけ暗くなる。日光が弱いときは泡の影は川底に投影されないが、ある強さに達すると、天井の泡の底部はより黒くなり、そこから円柱状の影がのび、光がさらに強くなれば川底にまでとどいて、影が砂をすべる。そして左右の視界は、川上も川下もある距離で遮断され、あたり一帯錆色のカーテンがゆれているだろう。

 この、ある柔らかさで区切られた四角な空間は、どこかカメラの暗箱みたいな感じである。カメラの内蔵に小さなカメラがはいって動いている。カニが一匹しかいなければ、カニの目玉は自分自身を写すことができないが、二匹いれば、おたがいのフィルムを複合することによって自分の姿も見ることができる。ムーヴィング・ピクチュアなどと言ってさわいでいるけれども、そもそも映画の真髄はこのように<想定された自然の眼>であり、またそのような<眼と眼の対話>であるべきではないか ー といった作者の主張が聞こえてくる気がする。もしかすると、ここには「カリガリ博士」の表現主義も「鉄路の白薔薇」の心理描写も、またエイゼンシュテインのモンタージュ理論も、映画草創期の気負いのすべてが愛らしく詰めあわされていると言ってよいのかもしれない。

 それと言うのも作者が、映像の核心は<影の流れ>であるという確信を端的に追求しいるからである。水の天井と中層と川底と、光の強さによって点滅する三種類の影があり、それらは一様にある方向へ流れてやまない。この光景をカニの眼となって眺めることは、作者にとっていささかも疑う余地のない涅槃の現前であるために、その姿勢はどこまでもゆったりと不動である。ー

「やまなし考」/「賢治初期童話考」谷川雁 より抜粋