お茶

 今年に限って、冬から春にかけて、煎茶の袋を三つ四つ空にするほど、珈琲ではなく、お茶ばかりを飲んでいた。薬缶で湧かした湯をすべて一旦茶に落として、熱いままを飲むけれども、他は冷ましてからペットボトルに入れ冷蔵庫に仕舞う。一度の薬缶分が小さいペットボトル二本となり、作務中、日中の喉の渇きに応じて冷たいお茶を軀に流し込む。家族が用意してくれる「水」もあるが、量的には足りないこともあったから、市販のものを購入するより、自分で濾し落としたほうがよかろうと、浅薄な気分で多分はじめたが、一日で二本のペットボトルは消費されるので、やがて日に一回という普段の振る舞いに落ち着いた。時に社会蔓延の疫病もあり、自己免疫力を維持するために、食事も偏らないように工夫しつつ、極端な肉脂肪を避け野菜を摂るメニューを喰いながら、半年前だったら珈琲で腹の中を濁したなと、これまでの行為を訝しく突き放す態で、カテキンに守られている幻想に浸る春を迎える。酒類もほとんど飲まない季節だったのは、軀がいつのまにかアルコールを欲しない状態になっており、それでも数ヶ月の内、二度三度はウヰスキーと焼酎を流し込んだ夜もあったが、朝を迎えて冷えた茶を飲むと、酒に触れたことを忘れる有様だった。亡父形見の鉄の急須を使いながら、ほんの茶碗二杯分の小さなものであるので、薬缶の全ての湯を使い切るには幾度か作業を繰り返す。この変哲のない時間と行為が、軀を含めた空間を柔らかいものに変えていくから不思議なものだ。
 「開墾した自作農園にて作物をこしらえる」という取りつき方、考え方で、作品制作を行なうと数年前に決めてから、その開墾に余程時間がかかったのは、開墾すべき場所、土を探していたことが含まれる。未だ開墾し尽くしているわけでは勿論なくて、未開の土を彼処、此処と睨むまま、その土に稚拙に植えはじめたものの発芽を認めることができる程度の愚鈍極まりない進捗の鈍さにて、秋の終わりから春までの静かな時間を過ごす間、漸く、自身の影に呪いのように付き纏っていた切迫地味たものがなくなり、ただのんびりゆっくり静かに、幾つかの「作物」をこしらえるささやかな至福が、カテキンのように軀に染み渡ってきている。