場所の徘徊反復によって、歩行に対面する凹凸だけの知覚から、それぞれの成り立ちを知るようになり、場所の構造が歩みに加わる。歩行による場所の把握とまでは、厳密にはいかないが、確かに知覚の変化がある。階段も曲がる路地も、それらを形成する大きな形態や理由が、家々だったり、点で繋がる交差の信号が飛び石のような符号だったり、記憶のつながりによって、見えない「向こう側」を今ここに瞬間的に統合した知覚で、繰り返し眺めている景色が変異してくる。
同時に時刻による気象の変化、光線の加減や、音響によって、その変異に対する態度のようなもの、カラダの傾きの差異によるみつめの位置や、とりつく嶌のような知覚の働きかけに、思いがけない変化が起きて、どうしてあの時はみえなかったか。不思議に思うほど、見えてくることがあるものだ。
而も凝視による輪郭のトレースとか、存在の意味とかいった、唯物的な把握ではないのが面白い。その異なった光景の確保の為に、頻りにシャッターを押す理由ともなり、現像の行方を確認すると、明らかにレンズが捉えた同じ場所なのに、その違いをみせつけられることになる。
地図を見て、真上から歩みの蛇行を辿ることも、だから、この場所に対する礼節のようなこととなって、ああ、幼少の頃から地図を眺めることが好きだったその本当の理由がわかったような気持になり、ようやく太い得心を腹へ呑み込む。
後は、犯行現場の写真を貼り並べる刑事と同じことを行うだけでよい。