過去という未来の予感

 9年前の2007年にメモリーズという写真の纏めを行って、14年の歳月(構想の発端を入れれば19年ほどか)を投入したプルーストを浮かべながら、「私」という成立史を記憶を辿って織り直す手法に、写真の記録性を重ねて、過去であるが現在において視覚的に示唆する機能性を見出すような立ち位置を確認していた。以降言説的なものも写真も同じような影響下にありつづけ、環境を明快に転位させたここ数年加速するように、過去を現在へ取り戻すような仕草(反芻)が顕著となっている。
 記憶が過去の断面を鮮やかにする時、「あの時ああでなかったら」という不可能となった消えた未来の枝行きの、折れ遺った枝の根、瘤のようなものが見つかることがある。選択によって水を吸い上げて系を遂げた本筋から逸脱する数々の未完の未来(感)は、記憶によって現在に寄り戻り、寄生植物の発芽の勢いで累々と現在という時間に吹き出物のような有様で新たに散乱をはじめる。
 そんなこともあって、予感を支える、あるいは予知を浮かばせる対象は未来である筈なのに、過去が翻るようにして未来となると感じることが度重なり、写真などをみつめても、遠い未来のような風情で読み取れる。作品となったモノは、提示した責任の所在が逝っても、痕跡のようなニュアンスを越えて存在するから、その印象に間違いはないと思われるが、そういった理屈ではない、過去が押し寄せる未来感という状態が、つまりモノをこしらえる動機なのだと得心する。

 古井も最近の短編で似たことを書いている。

 何事とも知れぬ予感に掠められた時の訝りは、由来の知れぬ記憶に掠められた時の訝りに似ている。予感はたいてい、これはとあやしんだ時には通り過ぎているので、その行く方を追うのはすでに、記憶を探るのにひとしい。しかし記憶のほうもまた、実際に見たこと起こったことばかりでなく、見そうになって見なかったこと、起こる間際まで行って起こらなかったことも多く、いや、そちらのほうを多くふくむことだろうから、現実にならなかった未来が順々に送り越され、一生の詰まるにつれてそれこそ熟れて、記憶自体、予感の味がしてくるのではないか。

「死者の眠りに」雨の裾より転載

追記として、筋は異なるが、古井の文体は、やはり自らの思春期という自立の時を、戦後のどうしようもない世の中を見るしかなかった、途方に暮れる眼差しのベクトルを強靭に維持しているゆえのものであると、つくづく感じる。