自力考

 ひとりだけでなんとかすると云う自力は、人間が社会的な生物である以上、ともすれば傲慢な始末に終わることもあり、力を自らに果たす戒めが外部から無いことを理由に、甘い短絡と堕落と脆弱を抱えることから逃れられない。だが、そもそも創造的仕方というもののほとんどは自力であって、時に他力を必要とする場合においても決着結末は自力という責任に基づく。元来人間は自力で生まれてきたわけではないのだから、関係性の中で擁護や依存を前提に自力という慢心を戒めて謙虚に世に従うべきという考え方も王道として在る中で、しかし自力を更に推し進めてみると、他と決して交わらない個体論となって、その固有性の顫動のような喘ぎとしかならなくても、感覚は其処へ集中しあるいは其処から発散するという原理に立つしかなくなる。「自力」と言葉にして聲を発声する社会的拡張時には、故に二股の行方が忍んでいるということになる。
 せいぜい半世紀という時間の生命の知覚経験の集積は、類的社会性類似性を伴う道具(言語など)や、風評的印象(情報の享受)の数々で出来上がっているにすぎないが、はじまりから在ったような感覚さえ残る、固有であるということの逆説的(反社会的)な違和感、差異的感覚は、その夥しい客観性を切り裂くように罅割れて、杜撰なのは個体ではなく全体という妄想錯覚であって、今水を飲み干す個体の意志は、その罅割れに添って行き渡り、自らの力を感応する仕方しか信じるものはないことに気づくのだ。
 自力という生物論は成立しないことを敢えて了した上で、人間のこの矛盾した「自力」の喘ぎを続けることに、そろそろどうしようもないものが繁茂し上空を見上げている。