rhyme trace 「韻痕」の逆説

 材(紙、木炭)の系譜的親和性(安易性)は、とりつき反復する容易さと、粒子を扱う自らの文脈から選ばれた。特に必要と思われたのは、某らへの構造基底となる転位を前提とした段階的な位置づけではなく、それ自体で完結し短い作業過程で反復に耐える構造であることだったから、表出が鍛錬じみたものであっても構わなかったし、むしろそれがこの作業の時間論となると弁えた。

 もの自体を扱う手付き(立体)の作業は、採集という日常の行動を見える形にする併置を意思決定し、材の陰影と佇みを景として現実へ戻すことであり、この作業はほとんど「切断」と「併置」に終始する。粒子を平面に併置することも、現実へ押し戻す作業には違いないけれども、粒子という細密さと平面性が煽るのは、その現実以外の特定の次元を想像させる知覚拡張(イマージュ)であるので、作業ももの自体の知触と異なり、その拡張を予感的に踏まえるものとなる。

 石とか枝の形態をそのまま借りることからはじめた「韻痕」は、「切断・併置」と同じ立ち位置を示すが、限られた平面矩形の内に仕込まねばならない「絵画性」から逃れることはできない。採集物の形態に粒子を置く必要は、それ以外の恣意的な行為性を抑制する効果として選択し、あるいはまた、それが採集物の徹底した再現描写ではないことは、表出後は採集物を再想起させず(石が芋と感じられても構わない)、粒子の「併置」の韻として遺す清潔な仕組みとすべきに起因する。そしてこれが「平面を耕す絵画」では非ず、触れ遺った痕跡である証左の観念的括りであるが、一枚の平面の虚構性という「図面」的思念への広がりは、形象併置から景と物語を想起させこともあるが、これを問題としていない。そして願わくば逆説的表出展開として「なにものでもないこと」という位置を作業過程において如何に持続できるかを、予知的にその作業そのものが孕むことになる。だから過程において最も重要であるのは、どのように併置させるべきかだけに頓着し、作業過程の時間論としての思念は現象状況論的(唐突な現実への照応)な種類となる。