場所の光

 北から南まで刑務所を渡り歩く仕事をしていた時に、はじめて訪れる場所がほとんどだったから、余計に時間をとって撮影しながら歩き回っていた。その前には、指先の没頭から逃れる、解放されることを期待して、中型の重い機器を担いで、田畑や街の裏側をのっそり歩いていた。旅に出てカメラを覗いて歩き回ることが身に染み付いた行為であるので、こちらはその癖を繰り返すばかりだが、同行者はその歩みに終着点やらの目的が明快に無いと辛いものらしい。立ち止まってシャッターを押すと、なんでこんな場所を撮影するのか、怪訝な顔つきをされるけれども、説明するほどのこともない。ただこの癖は、現実の再現認識という現像であるから、場所の出会いを反復することとなり、見逃してよいものを見逃さず、余計な現実を現実として捉えるようになり、そもそもの出会いの新鮮を打ち消す効果もあるから厄介ではある。

 現像という再現認識を行う撮影者は写真という道具で、その道具がもたらす知覚拡張によって、例えば「空間の奥行き」「露出(光の量)」「ピント」などといった、人間と対象世界との距離の測定感覚を、身体に添えるから、現在という「今」を、多角的に記憶するかもしれない。現代は誰もが携帯機能などで手軽に写真を撮影するけれども、その多くはシャッターを押された時点で終了する(あるいはSNSで流通)。この場合の体感は、現像による現実の再現認識というわけではない。

 場所の光が、「現実の検証として表出させてある写真画像」は、スナップショットと限りなく似ているが、似て非なるものであり、その差異に写真という道具としての外部性(非写真)がある。