愚図の時間論

 気温が上がり路面のアスファルトが顔を出しグリップが心地よいので加速し車を走らせて長女の忘れた手袋を宅配で送付してから蕎麦を喰いに回って戻る。池の淵に立って鯉に餌を投げる。盆栽を剪定し水を差す。あるいは縁側に座り込んで爪を切る。・・・のようなことだなと愚痴るでもなく端材の組み立ての続きを行っている最中に、ふとこの過ごし方に言わば制作の時間論があると気づく。

 表象化された結果(挙げ句=作品)を眺めれば、その姿態が示す、辺りへと照応する事々へと感応は事後的にはたらくけれども、表象へ至った経緯までをみつめることは簡単ではない。映画などの映像や写真などの撮影も、制作者の撮影の時間を類推することは、普通作品の鑑賞の埒外とされる。鑑賞者は皆暇ではない。おそらく表象のある到達点を示す「コト」は、この制作経緯がそのままあるいは翻って投影されている。返せば過程(思考)が容易に浮かぶ表象はつまらないということになる。

 言語化がむつかしい直覚的な創造作業の真横に、言語化記録デバイスを用意することで、制作の時間論は記述されるだろうが、そもそも記述が言語特有の時間論を内在しているので、これも困難と云える。つまり出来事の具現化という人間的行為の動きをトータルに表象化させれば、その作品はひとつの人間的時間論としての構造は纏うことになる。簡単に云えば制作過程に於いて「何をしているのか」という言及がなされれば、それはつまり時間論となる。

 何をしているのかわからない場合のほとんどは、素材の扱いのフォーマットに従っているにすぎない。従わない場合は、従えない理由がそもそも在って、同時に固有な別の扱いを試行(思考)していることになる。その克服と扱いきれない頓着こそがつまり時間論そのものとなり表象の次元を決定する。