暴虐から礼節の次

 時の進行がわからなくなるので映画や気象情報を垂れ流した横で作業をしている。乱暴から入ったとも云えるが、作業自体が礼節となって洗練するのは、詭弁と感じられることもある。だがいずれにしろ、入りも過程も問題ではない。作業自体が通過儀礼と固まった時から、別の入口がみえている。

 そもそも限定的に世界を把握しようとしていないので、併置する「言葉」は、短歌やら俳句といった自立律のあるものでは併置のバランスが崩れ、まるで臍に埋めたダイヤモンドのような不相応な形となる。韻とかたちも拘ると同様に言葉の力が暴走する。世界素材の遊離状況自体を示すことが、こちらの測るやり方であり、その状況自体が刻々と機能する魂振れとしたいわけだ。

 とはいうものの実際のところ研磨や組み立ての作業自体に「思考持続」を救われていることは確かであり、あるいはそこからぴょんと離れるような一刀(一投)の隙をうかがってはいる。

 無論形そのものによって気づかされ促されることはある。それは重要なことではないけれども、その確認の踏痕は併置のための楔のような働きとなる。つまり作業行為的にはこの楔が重ねられているだけにすぎない。斥力という興味深い併置が及ぼすものがあり、これは明快であればあるほどその効果は大きい。陥り易い「関係」といった接続的完結は、これを目的とせず、併置構造の合理性の為のみに使われるべきであって、故に「非関係」「無関係」という体を示すことになる。よって時には併置の統合構造体が関係性の帰結を導き易い場合、一度解体する必要がある。