walking tree

歩く木は光を求め、1年間で十数センチ動く。影の根は腐る。

森がこちらの歩みとシンクロして動くざわめき、枝の折れる音、獣たちの移動の気配、などを、風呂の中、腫れた瞼を湯に浸しつつ想像していた。
「歩く木」という言葉が先だった。みたこともない、実際のジャングルのウォーキングパームの詳細はどうでもよかった。モンスーンの気象の中の、この弓形の、鬱蒼とした湿度の中、植生の動きと歩む妄想は、風呂場の水の反響音の微分によって道を与えられた。果ての無い過去の、例えば、芭蕉と曾良の歩行の距離や、落人らのその日暮らしの逃走の切迫が谷と森と川の急流で、手のひらの上のぼた餅のごとくに薄笑いを含んで変容していく吐息、狩人の目の前に広がる馴染みの白銀の斜面、手元に立ち上がる毟った毛皮の内側の血臭の湯気の中、動く数を数えてこれでやめようと穂先の毒を拭き取る穏やかな表情や。

歩みを強かに装備で補強し、砂漠の探索にLANDSATを導入する意気地を文明と言うなら、なるべくカラダひとつの都度の状態維持だけを心がける歩みは、軽装でなければ意味がない。けれども、この軽装の歩みは、「歩く木」宛ら、愚鈍な気づきと実際の移動(伸ばしと腐り棄て)を、知覚とは別のところで(カラダの周囲で、あるいは輪郭に)作用させ、即効的なランニングなどと違った、「浄化」と「弁え」を育て、時には生まれたての赤ん坊の瞳を備える気分になる。

カトウに女の子誕生。最近人の子誕生がこれほど歓ばしく感じるのは。新家族に幸あれ。