冬の朝

軽井沢には朝早く着きたかった。快晴で、くっきりとした浅間山も大気が澄んでいて、どこか異様だった。
こんな場所だったかしら。記憶に儚いような白糸の滝まで車を走らせ、路肩の雪などに驚きつつ、葉の落ちた枝々の重なった谷の奥行きに三脚を立てカメラを向けたのはいいけれど、時空のなにか。季節の何か。人間など全く関われない何かによって、自分が、ここまできて、さて何をしようとしているのかわからない。人気のあるほうが余程気楽。

凍りついた瀧までの道を歩いて、ようやく朝陽が辛うじて届いた水の落下池も、撮影するような対象ではない。そういう探索の気持がうまれない。なにかとぼとぼと薄い上着の前を締めて長居もせずに歩きもどった。帰って現像したものに、それがよく顕われている。

別荘地をゆっくり周回し、時折車を止めて、使い果たしたような風情の敷地は、広大な庭は丁寧な管理がされており、草は毟られ、家の裏側も片付いている。表札の立て看板がいただけないけれども、このいかにもお手製の傾いた手書きの名前が、むしろ場所の確保の喜びが表れているようでもあった。勿論、放棄したようなドアの開けかかった廃屋かと思える草臥れたものもあったけれども、年がら年中、始終住まう生活の住処と違った、囲った女のところに通う男の、行きや帰りの、再び通うのかどうか躊躇いと意気地が交錯する息づかいのような、時間を挟んだ鈍い反復感が、なにか安定的に場所を貫いているようで、ひっそりとした家々の、今その中に座る人のかたちなどおもった。

歩けば快復するのは確かだが、何かをぽとっ。ぽとっ。と背中のあたりから落としているようでもある。