寸光ノ行方

彼方というのは距離的な感覚が先に降りてしまうから別の言葉を探しつつ随分冷気の失せた昼前の樹間の路を歩き行方かと言葉に新しく触れる。

十年ほど前に行ったこともないルクソールの彼方を夢想するようなまとめを行って、あの時は指先から距離を凌駕する幾らでも飽きずに繰り返すことの可能な時間が生まれた気がしていた。Alain Tanner (1929~)の光年の彼方 (Light Years Away 1981)とジョナスは2000年に25才になる (1976)の楽天的だがよい意味で直情的な物語を憶いだしbeyondではなくAwayかと重ねる。

こうした言葉は瞬間に永遠を見いだすと誤解される。永遠など関心はない。原理的には人間の生活知覚の届かない無関係な「一瞬」という光の記録を考える道具として気付けばもう23年が過ぎている。この光の一瞬は経験的なものではないしむしろ後付けの現実感の構築から思想展開する性質のものであり、美的なことでも情動的なことでもない。ただ単に鮮明なレンズの記録によって齎せられた人間的でないことの世界証明から、其処へみつめが続けられる至福にすぎない。

見ているという体感の脆弱は、時に死を思わせ、削除されるように喪失する人間存在の哀れさに直結するものだ。所謂知覚はそれ自体が繊毛のセンサーにすぎないから思考とは異なった利己的なナビなのだろう。見つめ続ける人間的な態度に想起される想像力は別の次元で別の時空を構想させる。その緩やかな愚鈍な寄り添いの記録をひとつの思想として遺すべきと背骨の痛みが消えない歩みのうちに確かに思うのだった。