指先という距離

「外」に出ることが探索やシフトのチェンジあるいは他の動機に促された目的に従属した移動ではなく、日々という振る舞いの一部に溶けてきたように思う歩みとなり、その路往き自体が生としての軀において矛盾無く代謝され、伴う知覚も生存という核を疑いないものとして周回する惑星軌道に落ち着きそれぞれがそれぞれの無理のない位置感でわずかに揺れるように照応する。個人的なことだ。悲観と楽観の混じり合ったような、というよりどちらでもない厭世の呪いがようやく払われた清潔な清涼感となって、例えば衣服を纏い長靴を履き腕時計をしてカメラを持つという、いかにも人間的な立居が解放されて充足する。霧にむせる淡い日でも低気圧の気象の下であっても快晴の透明な大気であってもこの充足がそれら微細な差異ある多様性によって都度揺らぐことがないのは、軀が既に生存の継続を環境に根を延ばし意識の外で同期させるようになったからだろうが此処に辿り着くまで随分時間がかかった。

取り立てて思う事も無いこうした日々の軀の率直の中でふと立ち止まり振り返っているだけにすぎない。端的な昇華のはじまりと帰結の点で繋がれた生存を生きることだけでよろしい。その・に特殊な社会性や意味を与えることはこの身にとっては意味がない。

話しかけるよりも聴く側であるとつくづく感じつつ頁を捲る夜があり、近親の者たちの語りに耳を澄ましつつ眠りに就いてこれも聞くような夢の中を主観も解けてから目覚め冷たい呼気を吐いて粉雪に素手を差し込む。表現を望む者ではなかった。こうであるということの現実感を偽りなく実現できればそれでよい。