歩く記憶

目にみえるものは過ぎ去った事ごと。つまり痕跡という過去であるにも関わらず歩くみつめの内で過去が今に捕われ途端に未来を輝かせるのはいかにも人間的だと冬枯れの路呑気に歩みを進める。

その地の落枝という過去は落ちた瞬間の幻視ようなものとして蘇ることもあるがむしろこちらにとって愛しく思われるのは朽ち消えるだろう遠い未来ではなく季節を越え「やや」崩壊が進んだ枝のやはりそこに在り続ける手の届く形のささやかな変化が豊かに広がる光景の揺らぎであり、ひとつふたつ季節を巡らしてもやはりそこに在るという地のトレースが肉体と精神を徐々にその地に結びつける確信と実感によって枝がより一層の枝と知覚される歓びに近いのかもしれない。

この時空のすすみは直接肉体の代謝細胞崩壊劣化老化と一体となり殊更文句はないが知覚はむしろ成熟を極めるということの証を落枝が示しているぞと更に歩くと、葉も雪も同様なみつめの成熟の中で再び落ちる葉と雪となって光景の彼方で新しい成熟を予感させ現在の脈動として息づく。

人間の構想や想像力が齎す形はどういったものであれ兎角恣意のバイアスを伴い反自然であるけれども、そうしたヒトの傾向自体をも包容併置する世界として弁える態度の内ではいずれ等価痕跡として突出が押さえられて沈着し景色の深まりの中で人間的な自然として根付き、その有様が達成としてようやく許された体感となって知覚に戻されるされることは気恥ずかしいような嬉しさがある。

世界物質のディティールに限定したようなモノクローム表出反復の隙間にふと抑制して退けた麗しい色彩の静止画像を眺めると、歩きつつ蘇る記憶と生まれる予感の外に手のとどかない明瞭明快な古くさい言葉を使えばハイパーなもうひとつの光が音響の横の無音のような清潔さで在ると気づくのだった。