季節の遅れ

書いた物を振り返ると昨年の十月二十日過ぎには針葉樹の落葉をかきあつめているので今年は二週間は遅れていることになる。と腰を曲げて落葉を集めるが早朝降った雨で湿っているので陽光に曝されて乾くのを待つかとも思った。

湯槽でやはり時代のせいか気取りがそのまま残っている堀辰雄の合間にのっそり捲る本の音 / 堀江敏幸の几帳面な書評から促され幾つか注文し夜中には一ヶ月ほど補給していなかった映画を二度観も含めて知らぬうちに物語の作り方という寄り方ではなく物語自体を検証するようなみつめで眺め朝方窓の暗闇が薄明かりと樹影でゆっくり奥行きをもたせる広がりに眼の疲れに対する癒しの光り以上の至福を感じていた。

肉体と心の年齢的安定を自覚できなかったがおそらく人生の内で最も健やかな三十代に意固地な清潔を気取る逆さまの精神をある種の不自由さという気取りへ内向させていたと今になって呆れて振り返ることが度々あり、今更それを罪深く思うことはないけれども、センターセンチュリー世代に映り込んだ時代の投影に対する本能的な類的反射であったとしても、どこか特異な宙づりの隙間があの時期入墨のように刻印され育まれたとも考えられる。娘たちに遺された住居には何が配置されたままになっているべきかを夢の中では既に死者の目で浮遊しながら部屋を巡りああでもないこうでもないと整理する自身の浮魂がこれが最後の展示というわけだとごちてから目覚め、まだよろめく足取りの落葉を辿る散策ではっとしたが戻ってみれば何に気づいたか忘れていた。