この高原の秋を過ごすのは二度目となったが光や大気の様子はむしろ一度目よりも克明さをつきつけるようなところがあり、鮮明さに怯むほどだと、これも慣れていい筈の夕刻の小径で、立ち尽くすばかり。
言葉で日を振り返り、空白に色彩を与えるような、こうした記述が、「詩」となるのかわからないまま、都度の意識の注ぎ方をするだけだが、それを辿って振り返れば、どこかその色合いが「詩文」的響きとなって聴こえることはあると気づく。
韻律などの仕切り方と針に糸を通すような集約のさせかたをしないことが、逆説的な「詩」と醸すことも知り、最近は何がメインであるのかわからなくなっている、視覚的な顕われの行方や関与も、こうであったなという手付きの実直に任せているので、どこか可笑しい照応がなされ、少々微笑みつつ、聴こえとみつめの隙間に立ち尽くすことを贅沢と思っている。
雪が舞っても同じ感覚に居るのかと、夢の消える淵でぼんやり考えたが、夢の兆すあまりに唐突な併置とその成立因に吹き出し、これはオフレコだよなと戒めることもまだまだネタ切れにならずに産出されることが、自身の蓄えのように思えた。