気象、地勢は劇的に変わらないので、この歩く道も辺りも彼の目でみたものであると思う時があった。眺めること自体がつまり過去と未来の彼にスライドする普遍世界に触れている。
とまあ、屁理屈だが、西行、芭蕉の歩みがふと立ち止まる光景への眼差しに映るものはこの目と同じともいえる。眺める主体のことばかり考えていると、こうした「彼の目」という想像力(タイムトラベル)の醍醐味を失くしたまま全的な躯すらユニークなものという閉塞で終わる。
生命原理原則としてはユニークであるとしても、対峙関係のバランスとその宿命のようなものは、彼とこちらと変わるはずがないから、鳴き暮れる蜩の響きと風の中に揺れる樹々の幹の太さ故の動きの幅とその微動は延々と同じ。
サスケの下りはじめを脇に逸れる道がありナビには池なども示されていたので寄り道すると坂口という村落へ繋がる。頷く道の交錯が狭いが豊かな色彩の開墾田畠にあり選んで市街地方向を行くと旧坂中峠へと導かれトンネルができた今は往来が絶え荒れたようなアスファルトにはやや記憶があった。この割合に距離のあるトンネルのお陰で南から北へ抜ける人間は生を峠の分短縮したが、トンネルが無くても一向に関係のないような村落の位置とその風情には別の時代が無理矢理隣り合わせに置かれているような妙な無関係がすっきりと現れており、時折降りてまた幾度も走ってみようと思うのだった。
彼の目という憑依感を持って図面を引いた、モリヤくんのツリーハウスのオープンウインドーフレームのタイトルを転写で刻印することにする。
「水のはいったコップを置く君の腕の指の森 -Forest of the fingers of your hands put a glass of water 2012 -」