見えていない世界

 大宮、高崎から人が乗り、終着まで座席には人がうまったままの勤め帰りもいるのだろう夕刻の列車で窓にもたれ、取り出して眼の前に置いた本は結局上田をすぎた頃二頁ほど辿ったきりで、それ以外は閉じたままだった。
 まず写真という画像表象から恣意を探り出してから、その人間的な意思、意図の届かぬ領域の、そもそも見たいという欲望の果ての、本来的に見えない、見ようとしない光景というものに、時間経過という差異の地平で、わたしは凝視をはじめていると、考えていた。
 世界は勿論、人間的な都合の光景がうちひろがっているわけではないし、街頭や衛星のレンズも淡々と置かれてあるという意味で、その目的を外せば、見えない世界を映し出すに違いないが、わたしの後日立ち上がる凝視は、そういった種類は外される。もっとデリケートにレンズが機能していなければ、凝視は折れるからだ。このあたりが選定のむつかしい点ではある。
 凝視は、見えていなかった、見ようとしなかった世界が見えつづけるという、なんらかの*仕立てがなければ成立しないコトへ向かう。この場合、この仕立てが恣意の外と明快な線を引き、瞼の位置の目的と、世界との個別な人間的な関わりを排斥するように、例えば水平と垂直にのみ支えられ、中心とか俯瞰とかも失せ、ただどうしようもない事実性が、共有の土俵に顕われる情動的ベクトルに対しての斥力をはらんで、視覚的好奇心の喪失感をむしろ顕著にする。
*撮影時の身体の角度が関係している。この角度とはつまりこれもひとつの恣意にすぎないのではないかという思弁に陥ることも否めない。
 「見えていない世界」「見えなかった世界」と言葉にすると、そうしたものが、視覚欲動の新たな対象として、視覚快楽を増長する美的な開発、発掘と安易に響くが、この凝視の対象は、見えていないことの持続が結晶化されているという点で、矛盾するけれども、見たくなる、見ることで気分がよろしくなるといったものではないといってしまっていい。見えていない、見えなかった、という知覚の外縁、あるいは知覚の果てにそのまま残されているという状態を選別し、それに対して、凝視するわけだ。
 
 視覚とガラス (レンズ) と光と距離 (空間)と時間を、机上に並べ置く、その配置構成の、いうなれば景色のようなものを、最近頷きながら静止状態にシンクロしたまま度々幻視していたので、歩行や列車の動的な移動軌道上において、あの静止状態を検閲するような意識が働くのだろう。数日はまた移動を繰り返し、この活性を支えて、もう少し「凝視」の行方を探る気概のようなものを溢れさせて、丁度タイミングのよかったバスに乗り換えた。