複雑な色彩と春の意味

上村から夏川(どこか辿るたびに胸に響く地名の)へ降り野村上の交差点を横切って牟礼西小学校の校門から本格的に鍬入れのはじまった田畑を左にみて真っすぐに走り飯綱病院脇を過ぎて線路下をくぐると約10キロ標高差500メートル先のスーパーマーケットに着く。

5月が春というほぼ半年の冬の場所であったこの地の山々の色彩が淡く白濁しているような概観とみるのは間違っていた。じつは顔料のような鮮明先鋭さの多様な芽吹きそれぞれを近寄って確かめてから離れてもそのままの微細さをもって地の大気と対峙し、少しばかりの上目遣いで見える飯縄山山頂に僅かに遺された残雪が地の春の短さを示す刻印となり、一気にさまざまを散乱して咲かす樹々は、新緑の手前、紺碧を透かして足下にグリーンの層を蓄えて深さを透明さに変えている。

そのまま同じ道を往復せずに国道を北上し信濃町に入ってから飯綱東高原と矢印のある方向へ左折し霊仙寺湖縁を回って上村へと戻る途中幾度か停車して車を降りせせらぎに手を入れればまだ酷く冷たい。やはり流れに残った石を拾って庭に並べようかと思いつつ、森の中に歩く人の仕草もむこうに見えて、やや歩き冬に落とされた枯れ枝から垂直に伸びている若い植物の群生をただ眺めた。

この季節を振り返ればここ数年は夏前と秋口に音響に耳を澄ましていたけれどもその音源のほとんどはは恣意のものであったが、4週から6週サイクルで恣意を削除する環境の静まりとしての音響と、思い切り選び抜いた恣意の海への没入を繰り返すようになっている。再びまた雨音の激しくなる前は、せいぜい辺りの色彩に応じた音だけに耳を澄ましてみようという気持ちになる。

5,6,7,8と4ヶ月で春と夏が混じりおそらく9,10の秋の後半年の冬なのだから、6月は春が雨で新緑へ変異する初夏の手前だから、5月だけが春なのだ。この短さの季節に何か意味深な理由があるように思えてならず、朝から夕までただただ歩き回りたい。