今時の

歩行を営みにしている人間はと、築地の豆腐売りが浮かぶ程度で、外回りの営業も、売り物を背負う人もいるけれども、歩み自体が生を育んでいるのかと首を傾げた。歩みは目的に従って身体を移動するから、芭蕉のような旅の体裁は、なかなか現実的ではない。目的があるから、歩むことが身を開いて、知覚を活性化させることもなかなかできないのではないか。こちらにしても、高々しれた距離を、もとはと言えばカメラをぶら下げたから歩めたようなもので、本末転倒、歩くという身体の自明な展きを、そもそも成立させた過去を持たない。
 異境を徘徊した時も、歩かねば其処に来た甲斐がないのでという脅迫に常に背を押されていた。そして実は長い時間部屋に籠って、実らなかった言語の学習に躍起になっていた。歩くことの意味というより、歩く必然を生に定着させれば、その定着の手法が目的となって歩くという運動がもたらす疲労からの逃避が生まれるし、登山や遠路の歩みを企ててれば、特異なイヴェントとなって興奮に支配される。ただ単に歩くというのは、むつかしいというわけだ。
 だがパラレルな場所を歩けば、自然と眺めが身体を動き、その光景へ至った系譜を受け取りながら、身体と場所との「角度」のようなものは生まれる。これをきつく戒めるつもりはないが、テクノロジーにも助けられつつ、結局固有な角度となることを確かめられれば、しめたものだ。手のひらの中の小さな小石のようなこの実感は、「なにもしない」という老いに忍ぶ世代狂気を救う唯一の妙薬であると、随分若い頃からどうも私は思っているようだ。