歩行の身体が刻々と纏う感応は抱えた網からどろどろ漏れるようなもので、気象や事象に左右される体調と気分なども、掌に残った残滓をじっと堪えるようにみつめる誠実さを持ち合わせていない。
関係の罠、あるいは観念の呪縛からなかなか簡単には自由になれないが、拘束の身に生まれるのは、探索という欲動に近い衝動であり、残された唯一の可能性であるといっていい。この探索が新たな罠と呪縛を呼び込むメビウスの環とならぬ工夫こそが、つまり、感応の諸々を都度ほとんど喪失する稚拙な歩行であり、探索を振り返る立ち止まりに生じる「眺め」の、鉱石の荒野、埋もれた事象が所々その一部を表出させている砂漠、いわば過去形の探索の海だ。
罠も呪縛も浅薄な目的に、始まりから未来まで支配され、その言葉の中で既に終了している。ひとつの静止状態を、固有な観念、あるいは固有な音響に結ぶことは、罠を構築することに似ているので危うい。同じように、散乱併置された出来事は、時間的文脈の内在する性質(これは関係ではない)によって、時間経過と共に深みを蓄積させるので、アフレコのような翻訳的関連性を与えること自体間違っている。
無関係に散乱した探索の海は、他者性の世界として、自己と無関係に在る、あるいは在ったわけではない。探索の海を構想(イメージ)しないかぎり、その時に力学的矛盾を孕む光景は、欲動される感応と振り返りの眺めの中で、時間経過を超越する意識の気概を形成できない。
だから偶然と閃きの断片を振り返る立ち止まりを促す歩行を、身体的にのみ持続することが肝心で、歩行のシステム化、観念化は、立ち止まらないマラソンとなってしまう場合もある。
この歩行が、唐詩の漢文の併置となんと似ているのだろうと、朝方放心していた。