徘徊

 カメラを持たずに徘徊したのは、何時降り出すかわからない梅雨の季節となったせいもあり、手ぶらの歩行が考えたよりも身軽で開放感に充ちたからでもあり、私鉄沿線の降りたことのない駅から地図も見ないで気侭に辻に誘われることが、それだけでなにがしらの新しいような充足が溢れたからでもあったけれども、ああ、それじゃあ此処に、カメラを持ってもう一度来てみようとかいった、当初の計画は全て潰れたような気分となった。この気分は悪いものではない。結局観光に似ているかしらとか、何か旨いものを喰わせる店はないかといった、別段目的を持ったわけでもない。記憶からすぐに消えてしまうような凡庸な徘徊にすぎなかったけれども、その反復からみえてくるものがある。
 対象、イコンといったような、目の前に対峙する出来事には興味はとことん失せたことに気づいた。時間と移動における環境空間のいわば「奥行き」のような「路」あるいは、その行方の陰影、初めて見る、土地での人の形、といった眺めの角度、あるいは、高揚するわけでなく水平に広がる風なみつめる気分の良さ、などといった、なんとも稚拙な修学旅行に訪れた地方都市の学生のようにきょとんとした目を持って歩いた。
 手間のかかる表象化の地道な作業の隙間の徘徊だからだったかもしれない。本来的にこうした無限反復が本性を貫いているなと、飽きもせずに淡々と行うこと自体から、糸を縒るように、観念から切り離された距離感のある瑞々しい言葉が立ち上がることがあり、意味など遠くに放って曲がり角で呟いたりするのだった。
 この都市は、狭い空間ではないし、時間経過による変化も激しいので、過去も現在に埋め込まれたまま放置されてある。さすがに立川より西には踏み込めなかったが、梅雨明けには未来からのトラベラーのつもりで八王子に降りてみようと思うのだった。
 荒川ではスケッチブックを持ってデートをした、輪郭すら失せていた記憶が新鮮に蘇り、いささか困惑し、五反田の知らない男の部屋で朝早く二日酔いのまま覚醒したあの時の、その前夜の詳細も浮かび、来た事がない筈の喫茶店でキース・ジャレットのケルンコンサートが流れたので、若くして病死した先輩の位牌の横に座る妹さんと、彼の声と笑顔が昨日会った人のもののように浮かぶのだった。