葬儀に駆けつけた札幌の叔父から日々10キロを2時間かけ歩みも入れて走っていると聞き、齢70を超えた超人のような大人の躯よりも、その鍛えの持続を決定する精神の強靭を思った。
吹雪でも走ることで飯の量も押さえられ酒はワインだけだという。躯が走ることを日常の食事のようなリズムで要求する。
積もった雪道を走ると1キロも進まないうちに足の甲に雪が盛り上がる。日差しのある真昼ならばそれも苦にならないが、大気が冷えた時刻では素手が凍りつくことを知り、時には滑って転んだ。緩い雪だから平気だと顔面に吹き当たることを続ければ鼻の先が赤くなった。それを理由の億劫に任せて歩くだけでもということも放り投げ、温々と足の先をストーブに突き出すように椅子に座りそろそろ走る時間だと弱く躯がもの申しても本等捲って日を過ごしてしまっていた。雪かきの労働や買い物などの理由もあった外へ躯を晒す度に、それでも多少歩いて走った。
なるほど躯と精神は、上等な入れ物と内容物ではないのだ。いい歳になってそんなことと呆れたのは、不十分な仕立ての凍り付く白い歩みの中、見上げた枝振りを意味も無く凝視して、枝の思想というものもある。走り出してから、こちらに戻ってくるブーメランみたいな恣意だぜ。顔面だけ上気してつぶやいた後、躯かココロかどちらかに成り果てるってのは最早この歳ではできないか。と重ねたときだった。入れ物を疑うような内容物が沸騰したり傾いて溢れるわけだから仕方ない。部屋に戻って「枝の思想」と紙に記し、自らの枝ばかりへカメラを向けたものをみつめると、見上げた際に明瞭に形態が浮き上がるヒトの頤に気づき、その枝が自明であるならば、それでしかないのならば、ただこの頤の角度の率直だけが露になる思想とも言えると考えた。