列車

 段ボール箱ひとつは、オフィスの資料ダイエットの為の書籍とデータロムだけとし、他ふたつの機器の荷造りを終え発送してから手持ちの荷の隙間に、カウチの背に横に重ねていた古井の「神秘の人びと」「始まりの言葉」を差し込んだけれども、列車の中では、「やはりまた」というデジャヴュをともなって車窓ばかり眺め、本など捲らなかった。
 Martha Argerich (1941~)の1965年のショパンと、Maria João Pires (1944~)を、iPodをクリックして、交互に聴き、また車窓をみやっていた。なるほど、独りのピアニストを聴くと、例えばショパンが姿を顕すが、ふたりの同じショパンを聴くと、ピアニストの輪郭が明瞭となり、演奏家の生活の景色へ欲望が伸びる。上野、大宮、高崎、軽井沢しか停車しない車内は季節柄、年度末の休みで帰省する風な学生や、口元に溜息が残っているような、いかにも子を独り立ちさせたばかりの母親たちが、空虚な虚脱を隠さずに静かに乗車しており、連休明けの平日のせいもあるのだろう、子供たちの騒がしさなどなかった。
 幾つもの事情が固有な世界を小さく形成する人びとの静かな座席の中にいると、車窓の隅に映り込んだその表情や姿が、こちらのこれまでの時間の中で符号を探すような動きをして、あの時の俯きや、今憶えば失笑する程度の困惑の重量が、当時のままに蘇生して、笑いを消すようでもあった。
 真昼の列車だから、尚の事、時間が混濁し茫漠とするのかもしれない。到着駅のプラットフォームから歩き出す、人の背を見て、見ず知らずの「そちら」へ、何か声をかけたくなり、そういえばいつだったか、同じような場所で、何気なく振り返った時に、まさに今こうしているこちらの表情の瞳と視線があったことを、くっきり憶いだした。