あそこに繋がっていると予想はつくが、実際に歩けばその予想がいかに小さな想像でしかないかがよく判る。
受験大学の下見の為、連休を利用して列車に乗ってきた次女と朝早く歩く。
家の回りはから松だが歩けば広葉樹の繁茂する中、枝や根をそのまま残した林の中の別荘もあり、定住の薪が積まれ日々の営みが輪郭に滲み出た家もある。三つほど先を曲がった道から南へ下がる坂道を下って、東南の村落へ繋がる車も頻繁にというほどでもないが走る道へ出て、逆谷地(さかさやち)という奇妙な名前の湿地の入り口まで歩いた。逆さの谷という盛り上がったものではないけれども、10万年の泥炭が静かに降り積もったという意味なのだと娘には説明せずにひとり納得し、まだ新しい看板を眺め、クロックスとサンダルでは湿地の中を進むにはよろしくないからと同じ路をゆっくり戻る。晩夏の蝉の声もまだあり、鳥の鳴き声も聴こえた。
ほらと娘を促して、から松の間を歩いてみせると、積もった針葉樹の層が柔らかいベッドのような感触で足首にやさしい。ふかふかだねと娘は声にだした。
数年埠頭を歩き回ったけれども、この道を歩くという感触がこれほど五感を刺激するという意味で豊穣であると実感したことはなかった。只管光景に引きずられていたようだった。今思えば光景に引きずられるというのは、観念が先行するようなものだと、森の中の歩行から気づくのだった。