歩きながら考えていたのは、ジャン=マリー・ストローブ (Jean-Marie Straub 1933~)とペドロ・コスタ (Pedro Costa 1959~)の、Où gît votre sourire enfoui? (2001)のある執着(集中)にて生成した差異と同一、あるいは重なりより生じる新たなもの。同時に彼らを存在さしめる環境とは一体どういうことなのだということだったが、憶測の域を超える筈がないと諦める歩きだった。というのは歩いた時間が短すぎた。数日から数週に渡って歩かねば考えたことにならぬ内容だった。絶えずシチリア編集時のJMSの声(言葉でない)が、意味を持たずに反響するようで、動かぬ鉱物のように黙り込んだ視線というカメラであるPCの、ある種、過去への憧憬といった寛容のレンズの解放と、ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレの、古くさいが発酵した手法をそのまま(賛辞やリスペクトなど含まず)カッティングする編集の、突き放した新しい物語の生成の手法との、相反するような、然し一体と構築されないとそれが目撃されない位置感で、それぞれの「世代」が顕著に繰り返して脳裏に残滓と滴っているものだから、歩き戻ってむしろ白濁した脳裏の声の反響を確かめるようにテキストを繰ってから、言葉を失うように力んで自分の歩行の現像を行うと、やはり色など思っていない。はじめて嫌悪していた彩度を高めたりもしていた。
6週間で150時間のデジタルビデオの撮影は単純に計算すれば、週休二日で、一日5時間の撮影を意味する。限定した場所での撮影にしろ、その果てしなさ、近接感はぼやっと推測できるけれども実現を具体的に想定すると尋常ではないことがわかる。人間の限定した行為であるから尚一層異常であるともいえる。そこから導き出されるものは、寛容とはいったが、全く別の次元の事であることも納得できる。ただ、その時間に横たわる緊張は、琴線のような細さではない。錆び付こうが日々太くなり切断できない緊張の膨張ともいえる。「批判的に且つつききりで近くに居る」という手法の短期発酵(相対的に言えば)は、その持続がもたらす逆の導き(長期に渡って距離を保つ)を断つ力を意志として握りしめていなければいけなかったろう。
時空を切り取る映像という錯覚は、他愛もない経験だけれども、その経験に魂を投じるとなると話はかわる。ある「異変」(現実)に対してそれをすくいあげる意志が、映画という輪郭の辺境、あるいはその向こう側に商業映画への封じ印のような輝きでぎらっと置かれてある。独り言の呟きも消え風に流されてだが考え続け歩いたせいで、こちらの知らぬうちに怯えるシャッターの、季節もわからないまま、撮影者の存在が消えるような眼差しが残ってしまったことが、だが面白い。
やはりフィクションだと歩行のうちで確認する。スクリプトに立体的(会話の隙間の髪を揺らす風など)な考察を加え100mmを手に入れよう。